その463 2017.2.1 新釈「天狗裁き」
2017/06/27
落語の天狗裁きという噺を見ていた。昼寝をしていた夫が、笑ったり怒ったり、
おもしろそうな表情をするので、女房が「ちょいとあんた、風邪ひくよ」と言って起こす。
「ところでさっき見てた夢、どんなの?聞かせてよ。」
「いや、俺は夢なんぞ見てねえよ。」というところから話が始まる。
「見てない夢の話はできねえ。」という夫に、
「どうせ私に言えない夢を見てたんだろう。」と女房。
まあまあ、と割って入るのが隣の男で夫の友達。見てないものは話せねえんだ、と夫が繰り返し、
大家、町役人、お奉行と話は大きくなっていって、とうとう高尾山の天狗にまで捕まってしまう。
「天狗のわしにも話せんとは、その身を八つ裂きにしてくれよう。」
グワーッと掴まれたところで、「ちょいとあんた、風邪ひくよ」という女房の声。
この天狗裁きという落語は、
「俺は夢なんぞ見てないんだ。」という同じ物語を何度も語った挙句、
振出しに戻るところが面白い。と、私は思っていた。
だが、一緒に見ていた家内は、少し解釈が違った。
「長い夢、見てたんだよね。」
「いや、そうじゃなくて、夢は見てない、と繰り返してるのに
周りが聞きたがって振出しに戻るところが、面白いんじゃないか。」と私は言うが、
「でも最後に起こされる前には、やっぱり長い夢を見てるじゃない。」と家内。
うっ、、うーん。そうとも言えるが、
それでは落ちの「振出しにも戻る」感が、出ないじゃないか、と言おうとしてやめた。
人の感性はそれぞれだが、私は、主人公が長い夢を見ていた、という解釈をしたことが一度もなかった。
結婚して丸28年になるが新たな発見だった。新しい考え方、ありがとう。
コメント
夕食中で、目の前にはビールがある。
「よそう、また夢になるといけねえ」って、これは最近よく泰平がやってる芝浜だよ。